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執筆者の写真高岡洋詞

漫画『ねこに転生したおじさん』とCHAIから考える「おじさん」と「かわいい」の関係

 漫画家のやじまけんじさんが2月からツイッターに投稿している『ねこに転生したおじさん』が人気を集めています。ねとらぼバズフィードが記事にもしていますが、子猫の中身のおじさんがだんだんとかわいく見えてくるのがこの漫画の面白いところ。おじさんと「かわいい」の意外な好相性に刺激されてあれこれ考えていたら、かつて「NEOかわいい」を標榜するCHAIにインタヴューしたときのことを思い出しました(3月初めに腰を痛めて寝込んでいたときに書いてアップし忘れていた記事です)。


●『ねこおじ』の素直な感情表現


 小さなもの。どこかしら懐かしく感じられるもの。守ってあげないとたやすく壊れてしまうかもしれないほど、脆弱で儚げなもの。どこかしらロマンティックで人をあてどない夢想の世界へと連れ去ってしまう力をもったもの。愛らしく、綺麗なもの。眺めているだけで愛くるしい感情で心がいっぱいになってしまうもの。不思議なもの。たやすく手が届くところにありながらも、どこかに謎を秘めたもの。

──四方田犬彦『「かわいい」論』(2006年、ちくま新書)


 『ねこに転生したおじさん』は、薄毛の初老男性が《トラックにはねられて、気がついたら猫に転生していた》ところから始まります。この漫画が面白いのは、猫はもちろん「中の人」であるところのおじさんがだんだんかわいく見えてくることです。


 バズフィードの記事でやじまさんは《元々、おじさんも猫も大好きなので、たまたまねこのイラストを描いたところに、後ろにおじさんを描いたところ、実は中身がおじさん、というのがピーンと思いつきました》と話しています。愛情の賜物なのですね。



 おじさんがかわいく見えて当惑する人が多いのは、おじさん(シスジェンダーの中高年男性)がこの世でもっとも「かわいい」から遠い存在と見なされているからでしょう。何にでも偉そうに口を出し、聞いてもらえないと不機嫌になり、「女は」「若いやつは」と上から目線で決めつけ、容貌も体力も衰えているのにスケベ心だけは元気いっぱい。そりゃかわいくないですよね。周囲に実害を与えることもあります。


 猫おじさん自身も、少女に「かわいー」と言われて「かわいい…? 私が…!?」と驚きます。鼻の上がほんのり赤くなっていることに注目してください。無防備なまでにわかりやすいはにかみ。猫おじさんは常にこの調子で、感情表現が素直なのです。



 あるいは、猫じゃらしを前に「遊ぼうと言われましても…どうしたら…」と戸惑いながらも、気がつけば夢中になってしまっているこのシーン。目をキラキラ輝かせて汗をかいて、とっても楽しそうです。おじさんのこういう無邪気な表情や仕草って、リアルではめったに目にしない気がします。



●「可愛い」=「愛す可き」


 『ねこおじ』でおじさんのかわいさを堪能しながら、僕がふと思ったのは「もしかして、おじさんって本当はかわいいのでは?」という……いや、それは自分がおじさんであることを思うと図々しすぎるので、「おじさんだってかわいくなれるのでは?」くらいにしておきます。実際かわいいおじさんはいますし、おじさんのカウンターパートであるおばちゃんは普通にかわいいですし。


 「かわいい」をWeblio辞書で引くと、トップにくるのは《1 小さいもの、弱いものなどに心引かれる気持ちをいだくさま》。「いやいや、おじさん小さくも弱くもねえから」と言われそうですが、㋐に《愛情をもって大事にしてやりたい気持ちを覚えるさま。愛すべきである》とあります。「かわいい」を漢字で書くと「可愛い」、すなわち「愛す可(べ)き」。この「愛す可き」に僕は可能性を見出しました。



 メディアにおける「かわいい」の使われ方は顔かたちに偏っていますが、「愛す可き」なら何でもいいと考えれば幅のある言葉ですし(冒頭に引用した『「かわいい」論』は『今昔物語集』の「かはゆし」まで遡って意味の変遷を追っています)、むしろ見た目に偏る用法が変なんじゃないかと思うくらいです。そもそも、目にしたとき胸がキュッとして心惹かれるのって、顔かたちよりも表情、仕草、言葉、雰囲気だったりしませんか?


 どんな表情や仕草をかわいく感じるかは人によりますが、僕の場合はやはり、かっこつけていなくて素直な(作為がない)それです。あと大事なのは攻撃性がないこと。腹が立ったからと素直に大声で怒鳴られても困りますからね。猫おじさんはその点、一人称は「私」だし、言葉遣いもていねいです。きっと転生する前から謙虚な人だったのでしょう。


 具体例を挙げたほうがわかりやすいと思うので、僕が最近かわいいと思ったおじさん3態を紹介します。やはり素直、無邪気、上機嫌、謙虚という感じですかね。


①駐輪場の受付の推定70代。料金を払おうとした僕のメガネが曇ったのを見て「あっ、見えなくなっちゃった」とクスクス。「大丈夫ですよ! 得意技得意技」と素早く100円玉を出すと、「おー、すごいねえ」とほめてくれました。


②スーパーでレジ打ちをする推定60代。接客がとにかく低姿勢で、それは相手が若者でも女性でも子どもでも変わりません。口癖のように「申し訳ありません」と言うので「そんなに謝らなくても……」と切なくなりますが、居丈高よりは1万倍ましです。


③電車でおばあちゃんに席を譲って立っていたら「あんた、いい人だね。俺はああいうの見るとうれしくなっちゃうんだよ」と声をかけてくれた推定70代。そこから15分ほどで人生ひと通り話してくれて、駅で別れ際に「また会いたいね。そしたらお茶でもしようよ。それまで俺、元気でいるからさ」と言われたときは胸がキュッとしました。連絡先を交換すればよかったな、と今もときどき思い出します。


 おじさんのかわいさにはどうしても多少のわかりにくさが伴うので、それを明快なかわいさを持つ猫ちゃんに置き換えて、受け入れやすく “翻訳” してくれているのが『ねこおじ』だとも言えるかもしれません。実際は逆に猫の表情や仕草をおじさんに置き換えているのでしょうが、そのアプローチが功を奏しています。


 例えば、子どものとき以来数十年ぶりに頭をなでられて幸せそうな猫おじさん。その素直さがかわいいのですが、おじさんだって愛情を込めて抱っこされてなでられたらうれしいし気持ちいいはずです。そうして想像力を刺激されているうちに、会社ではコワモテなのに、猫のプンちゃん(かつての部下)の前ではデレデレの社長もかわいく見えてきます。描写のこまやかさは、猫とおじさんの両方を愛するやじまさんならですね。



●おじさんも「NEOかわいい」?


 閑話休題。CHAIに2度目のインタヴューをしたときのことです『CDジャーナル』2018年7月号に掲載)。彼女たちが提唱していた「NEOかわいい」の話をしながら、僕は大胆にも「僕もNEOかわいいですか?」と聞いてしまいました。いまだになぜそうしたのかよくわからないのですが、4人は口々に「もちろんだよー!」(ユウキ)、「笑顔がかわいい!」(マナ)、「口元がかわいい! 見ちゃう」(ユウナ)とほめてくれたのです。恥ずかしかったけれど、同時にうれしくもありました。


 あとから「若い人たちに気を遣わせてしまって申し訳なかったな……」と違った意味で恥ずかしくなりましたが、この経験は僕の「かわいい」の解像度を上げてくれた気がします。過去に自分がそう言われたとき、スルーしたり茶化したりしていましたが、素直に受け止められず戸惑っていただけで、内心ではうれしかったのだと思います。「愛す可き」人だと言ってくれたと思えば、「ありがとう。うれしい」と返せばよかったわけですね。


 「かわいい」とは何なのかを重ねて問うと、「愛嬌? 夢中になってるときに出てきちゃうもの」(ユウキ)、「チャーミングさみたいな。その人らしさ?」(カナ)、「ナチュラルな魅力」(ユウナ)と答え、最後にマナが「わたしたち自身も憧れてきた言葉だけど、実は遠くにあるものじゃなくて、すごく近い存在なんだよって気づいてほしいよね」とまとめてくれました。


2018年のCHAI

『わがまマニア』リリース時のCHAIの宣材写真


 猫おじさんに攻撃性がないと先述しましたが、彼は態度や言葉遣いで自分を強く大きく見せようとしていないのですね。逆に言うと、リアルのおじさんがかわいくないのは、自分を強く大きく見せようとし、プライドや威厳を保とうとして、自分の感情に素直になれないからなのではないでしょうか。


●愛し愛されて生きるために


 感情って弱々しいものが多いな、と昔から思っています。愛しさも楽しさも驚きも喜びも悲しみも孤独も、怒りでさえも。「好き」とか「うれしい」とか「悲しい」とか「寂しい」と口にした瞬間に、相手にも第三者にも弱みを見せることになります。「あんなのが好きなのか」「軟弱なやつだ」と侮られるリスクがあるわけですね。でも、侮られたくないからと上から出てダメ出しや揚げ足取りや威圧や恫喝や嘲笑ばかりしていたら、尊敬されるどころか煙たがられるでしょう。


 そうなるしかなかったのかもしれません。ホモソーシャルな付き合いのなかではマウントの取り合いが起きがちで、「聞く」より「聞かせる」、「受け入れる」より「受け入れさせる」ことがよしとされますし。僕は他人のマウントを取れる要素が一切ないせいか、幼少期からそれがずっと苦手で、適応しようと頑張った時期もありますが、結局のところ昔も今も女友達のほうがずっと多い人生です。


 このへんについては音楽療法士として日々多くの高齢者に接しているかときちどんぐりちゃんこと智田邦徳さんにインタヴューした際、うまく言葉にしてくれていました。


 シスジェンダー/ヘテロセクシュアルの男性って、コミュニケーション自体が不得意ですよね。インタラクティブにならない。社会的地位や権力をもとに築き上げた自分の立ち位置というか高さのイメージがあって、そこから外れると不機嫌になったり、物申したりする。おじさんの扱いに関しては、いまだによくわからないことが多いですね。自分もおじさんですけど(笑)。



 このあと《素手で戦って生き抜いてきたおばちゃんたちは、さすがに強いなと思います》と続きますが、僕も女性同士のコミュニケーションを見ていて感心することが多いです。いいところを見つけてほめたり、謙遜したり、愚痴をこぼし合ったりと、互いに警戒心を解かせ合うのが上手ですよね。これも「そうなるしかなかった」のかもしれませんが、支え合う関係を作り維持していくことに長けている感じです。


 「かわいい」を「愛す可き」と解釈することで、非おじさんだけでなく、当のおじさんも受け入れやすくなるのではないでしょうか。「かわいい」でなくても、「話しやすい」とか「優しい」とか「とりあえず無難」とか、とにかく「威圧的」「怖い」「ウザい」でなければいい。尊敬は得ようとして得られるものではありませんし、「畏れ多くて近寄りがたい」と思われるよりも、気軽に話しかけられるほうがうんといい気がするのですね。


 己が否応なく帯びている権力性を(心外でも)自覚して、それを誇示するような言動を抑制する。一方で感情は素直に表現し、弱みを見せることを恐れない。攻撃に嗜癖しない。人を信じて委ねる。他者に敬意を持つよう努める。頭の高さより腰の低さ。そう心がけていれば、おじさんはもっと愛される=かわいくなれるのではないかと。「かわいい」と言われて戸惑うなら「かわいいとはなんだ!」と反発するより照れるほうがマッチベター。漫画から学べることはたくさんあると思います。


 偉そうに言っていますが、あくまで理想であって、実践はまったくできていません。しょうもない自尊心を捨てられず、自分に甘くて無神経で、同じ失敗を繰り返し、常時モヤモヤしています。歳をとれば人間ができるわけではなく、きっと一生未熟、一生勉強なのでしょう(逆に若くても「できた人」はいます)。でも、やっぱり理想を捨ててしまったらつまらないとも思うのです。




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